ダーク ピアニスト
前奏曲1 真実の肖像



それは祭りの夜だった。
賑やかな通りを外れた端でぽつんと店を出している男があった。

古い机の上に絵を並べ、絵葉書やポートレートに飾れる静物画を売っていた。そのどれもが素晴らしい出来栄えだったにも関わらず、絵はほとんど売れた様子はなかった。今日売り上げがなければアパートを追い出されるかもしれない。しかし、男はのんびりと椅子に座って欠伸する。彼の背後にはイーゼルに立てかけた少し大き目の風景画も2点飾られていたが、誰も立ち止まって観て行く者もなかった。

向こうの広場からは人々の歓声や音楽が漏れている。そろそろ祭りもクライマックス。彼はすっと立ち上がると帰り支度を始めた。
「やれやれ。これで今夜は野宿決定だな」
彼は苦笑する。が、その表情は明るい。彼は逆境を楽しんでいた。絵葉書を揃えて鞄に入れる。と、不意に背後で声がした。
「この絵すごいね。本物みたい……」
いつの間に来たのか、少年が一人背中を向けてじっとその絵に見入っている。

「へえ。何処がいいと思う?」
男が訊いた。
「えーとね、風が木の葉を揺らしてお話を聞かせてくれるところ」
少年が言った。
「それとね、こっちの絵には音楽が流れてる……。本当に海の声が聞こえるよ。本当にすごい……。僕、こんなの初めて見た」
少し興奮して少年は言った。

「何故……そう思う?」
男は驚いた。確かにそのように描いたのだ。1枚は森に吹く風の祈りを……。そして、もう1枚は海の嘆きとその豊かな調べを……。だが、その声を聞くことが出来るのはそれを描いた彼のみの筈だった。
「だって聞こえるよ。あなたがそう描いたから……」
少年が振り向いた。そして、彼の顔をじっと見つめる。何処までも深淵な黒い瞳……。吸い込まれそうな気がして、男は慌てて視線を逸らした。
「おまえ、一体、何処から来た?」
自分の声が上ずっているのがわかった。

(少年……)
彼は強く意識した。
華奢ですっと長い手足。さらさらとした長い黒髪。そして愛らしい唇。そこから湧き出る言葉の全てを彼は音楽に変えるだろう。
(天使……)
そんな言葉が頭を過ぎった。もし、少年の口から自分は天界から遣わされた者なのだと打ち明けられたとしても、自分は何の疑いも抱かず、それを信じてしまうだろう。だが、少年は彼の期待とは違う言葉を口にした。

「それがね、よくわからないんだ」
「わからないとは?」
「本当はいけないと言われたんだけど、僕こっそりお祭りを見に来たんだ。だってとても面白そうな音がしていたんだもの。お祭りはとても楽しかったよ。でも、気がついたら真っ暗で、家がどっちかわからなくなってしまって……」
少年は不安そうな顔をした。
「それで? 家の近くの目印は? 番地は?」
「わからない」
少年は首を横に振った。それではまるで手掛かりがない。越して来たばかりなのかもしれない。それとも旅行者、そうでなければ……。

「名前は?」
男が訊いた。
「ルビーだよ。ルビー ラズレイン」
「そうか。おれはアルモスだ。アルモス G ガザノフ」
男が手を差し出すと、彼もその手を握って来た。
「よろしくね、アルモス」
ルビーが笑う。
(いい笑顔だ)
男は思った。が、次の瞬間にはもう少年の関心は石壁の隙間から出ている緑へと移っていた。そして、彼はその細い弦状の植物を自分の手に這わせて喜んでいる。他愛ない光景だった。だが、そんな彼を見ているうちに男の中で何かがうずき始めた。それが何なのか当の男にもよくわからなかった。が、それはだんだんと実体化し、頭をもたげ、やがて叫んだ。

――描きたい!

(こいつを……)

突然、荒々しい程の感情が男の胸を突き抜けた。
(何故?)
男は唖然とした。
(おれが……人間を描く……)
有り得ない事だった。彼は風景を専門にしていた。その方面では、彼、アルモス G ガザノフには定評があった。若くして才能を発揮し、世間では彼を天才などと称える声さえあった。しかし、そんな彼も人付き合いは下手だった。滅多に笑わず、彼が誰かと談笑している姿を見る事もなかったので、皆、彼の事を人間嫌いの変わり者だと言った。
それも半分は当たっていると自分でも思う。

(確かにおれは、これまでずっと人間を避けて来た。話す事をじゃない。描く事をだ。おれには人物画は描けない。なのに、何故だ? 魂が震えてる……)
今、彼の中で猛烈に湧き上がる感情……。
(描きたい……! おれの手で、おれの筆で……嬲り、力任せに捻じ伏せて……こいつを……キャンバスの中に閉じ込めて……おれの中で……何度も……何度も……)
どろどろとした熱い情熱が男の中で逆巻いた。
(ルビー ラズレイン……。こいつは原石なんかじゃない。存在そのものが完成され、危険に満ちた魅惑の宝石……)

彼が人物を描かないのには理由があった。それは……。

「見つけたぞ! この偽絵描きのイカサマ野郎!」
不意に背後で声がした。振り向くと、粋がった強面の男が3人、彼の周りを囲んで来た。
「何の用だい? もう店仕舞いなんだけど……。それとも、おれの素晴らしい絵を見初めて、ぜひ買わせて欲しいってんなら話は別だけど……」
「うるせェ! 黙れ! このペテン師野郎!」
「失敬だな。おれは滅多な事じゃ嘘はつかない主義なんだ。おまえらにペテン師呼ばわりされる覚えはない」
彼はきっぱりと言った。
「何? この間の肖像画の件を忘れたとは言わさないぞ」
「そうだそうだ! 奥様に恥をかかせやがって……!」

「肖像画?」

男がフッと微笑する。
「ああ。思い出したよ。おれは人物は描かないって何度も言ったのに、無理に依頼なんかして来るからさ。しかもおれの恩師の名を騙るとはそっちの方が余程サギだろうが……!」
「それ相応の礼はした筈だ」
男達が凄んだ。
「だから、ちゃんと描いてやったじゃないか」
「ちゃんと描いただと? あんな形の歪んだ醜い化け物があの美しい奥様だとでも言うのか?」
「美しい?」
彼は笑った。
「美しいのは宝石だけで、中身は醜い化け物じゃないか。
おれは真実を描いたんだ。
おれの筆は正直でね。キャンバスに描くのはいつも真実。そのものの本性を描いちまう。だから、人物は嫌だったんだ。描いても描いても出て来るのは醜く歪んだ欲望ばかり……。
だから、おれは決めたんだ。もう人物画は描かないと……」
(それなのに……)

――描きたい

瞬間。相反する思いが狂おしいまでに強く彼の意識を支配した。
(少年だ)
背後でじっと彼を見つめている黒い瞳。
繊細で華奢な硝子質のお人形……。
(巻き込みたくない)
彼は少年に早く逃げろと合図した。が、彼はきょとんとしてただこちらを見ているだけだ。その間に、いざとなれば卑怯な手を使う事もいとわないと言わんばかりに少年の前に回り込む男達。
(何をしている? 連中に逃げ道を塞がれたじゃないか)
アルモスは苛立った。

「大丈夫。僕のことなら気にしないで」
クスッと笑って少年が言った。
(何だ、こいつ……。やけに落ち着き払って……)
と、彼がそちらに気をとられた時だった。真ん中で見得を切っていたごつい男がいきなりアルモスの顔面に拳を叩きこんで来た。
「ぐっ……!」
口の端が切れた。が、彼は怯まず、素早く身を捩ると男の体を利用して反転し、その背中に肘鉄を食らわせ、突んのめったそいつの尻を靴の踵で蹴り飛ばした。男は相当強く尾てい骨を打ったらしく、尻を突き出したまま路上でひいひい呻いている。
「てめえ、よくも……!」
脇に控えていた二人の男が同時に飛び出して来た。が、その一人が何かに躓いて惨めにも机の角に脇腹をぶつけて転がった。もう一人の男は初めの一発はアルモスの顔面を捉えたものの、下から掬い上げるような強烈なアッパーを1発食らい、その場で勝負はついた。

「おい、どうした?」
「ケンカか?」
少し離れた所に店を出していた男と通行人が叫んでいる。
「チッ! ヤバイな。人が来る」
アルモスは手の甲で軽く血の滲んだ唇の端を拭うと、大急ぎで道具を片付けてルビーに言った。
「おまえも早く立ち去った方がいい」
先の通りが賑やかになって来た。祭りが終わって人々が一斉に広場から出て来たのだ。
「来い」
まだそこにいたルビーの手を掴んで彼は走って夜の闇に紛れた。


「さっきはどうもな」
誰もいない教会に入るとアルモスが言った。
「何が?」
ルビーが訊く。
「おまえ、さっき青シャツの男の足を引っ掛けたろう?」
「フフ。見てたんだ」
「おまえ、顔に似合わずかなりケンカ慣れしてるんだな」
「どうかな? 僕はアルみたいに強くないよ」
ルビーはフッと笑って首をすくめる。儚気な微笑……だが、内に秘めた凄まじい情熱……。

――描きたい

(その強烈な闇と光を……胸の中の真実を……!)
ルビーの白い心を覆う影。
瞳の中にステンドグラスの幾何学模様が一瞬だけ映り込んで消えた。
「……」
男が何か言い掛けた。が、少年はパッと身を翻して駆け出すとオルガンの前に行った。
「これを弾いてもいいかしら?」
誰にともなくルビーが訊いた。
その柔らかい手つきと優雅な身のこなし……。
(やはり、天使様は天界でお育ちか)
がさつな自分と比べて、彼が随分いい家の出身なのだとわかる。しかし、何処の……。

――描きたい

また強く感情が沸き起こった。美しい横顔。なめらかな指……。彼を囲むように施された彫刻……。急いで鞄から道具を出した。まさしく完璧な構図だった。オルガンと彫刻と彼……。彼は白い紙の上に筆を翳した。

と、その時。聖なる鐘が鳴るようにルビーが演奏を始めた。
荘厳なミサが始まろうとしている。次の夜明けが来る前にひっそりと行われる儀式……。夜のうちに醜く汚れた魂は浄化され、少しずつ、ほんの少しずつ清められて行く……。しかし、世の中の人間の中に巣くう闇の何と多いことか……。天使の救済も間に合わず、制裁を受けなければならない者は一向に減らない。
(これは音楽? それともバイブル? ルビー ラズレイン……。おまえは一体何者なんだ?)
彼は筆を持ったままじっとルビーの奏でる音楽に聴き入った。

「ねえ、アルモス。あなたはどうして絵を描くの?」
ルビーが訊いた。
「じゃあ、おまえは何故音楽を奏でる?」
男が訊き返す。少年はフフフと笑って言った。
「そういうこと?」
「そういうことだ」
二人は言ってじっと互いを見つめた。それから思い切り笑った。

「おまえの絵を描かせてくれないか?」
アルモスが言った。
彼が広げたスケッチブックにはまだ何も描かれてはいなかった。
「いいけど、あなたは人の内面を描く画家なのでしょう? あなたの中で僕はどんな風に見えてるの? 闇? それとも醜い化け物?」
「……」
何かを言おうとした。が、やはり何も言えなかった。それは彼にもわからない事だった。キャンバスに筆を落とすまではその人物がどんな風なのかアルモス自身にもわからない。仕上がった絵を見て初めてその人物の心がわかるのだ。
彼がそう説明するとルビーは不思議そうに首を傾げて言った。
「今までに心のきれいな人はいた?」
「いや」
彼は答えた。
(そんな人間など一人もいなかった。そして、このおれを理解してくれる者も……)

「それじゃあ、楽しみだな。僕の中にはどんな魔物が住んでいるのか」
ルビーはうれしそうだった。
「描かせてくれるのか?」
(おれがそういう者なのだと知っても……)
「いいよ。僕、どうすればいい?」
「そこに……。オルガンの椅子に掛けてくれ。さっきみたいに……。そして、弾いてくれ。自由に……」
「わかった」
ルビーは言われるままにした。すると、アルモスは、今度は曲ではなく、自分の筆に集中した。張り詰めるような教会の中の空気を震わせる二つの魂の交流……。それは、時に熱く火花を散らし、時には離れ、冷静に互いを見つめ、絡み合い、溶け合って、また闇の中へと戻って来る。そして、また高みへ……。そして、激闘の夜明け……。
天使は奏でる手を止めて詩を口ずさんだ。


月光は時の彼方
ただ一厘の花は手折られて闇の中
僕の胸の底に沈む

時は巡り
幾度も生まれ
幻想は静かに降り積もってヴェールを紡ぐ
夜明けの晩に僕は生まれ
夜の夜明けに君と出会う
幻想の霧の向こうに見える影……
時と星とを結ぶ影
星と人とを結ぶ糸
その糸と闇とを縫い合わせ
人は歴史を紡いでく
螺旋軌道を描いてく

淡い命を紡ぐ糸……
そしてそれがすべてを結ぶ
無限の螺旋を描いてく
魂はここに
いつだってここにいる
夢想の霧のこちらから
いつも君を想ってる
僕が出会うべき魂を……
君をこの手に抱くまで
命を込めて祈ってる

幻想は時の彼方
運命の螺旋がずれて
遠く僕達を隔てたとしても
僕がその螺旋の中心となり
新たな螺旋を作り出そうと思う
君の心に繋げるための
新たな扉の運命を叩く

血濡れたこの手に咲く花は
僕を憎んで泣くだろう
叫んで愛を求めるだろう
だけど僕はもう決めた
子守唄は歌わない
闇の心は奏でない
心のずっと奥深く
僕の傷口から流れ出た
その血がやがて川となり
君の心に届くまで
闇の心に月光の
やさしい光が届くまで……


その詩をスケッチブックに書き留めてアルモスが言った。
「おまえが作ったのか?」
「即興だよ。いつもでたらめな歌を歌うんだ。詩も作るよ。でも、それだけ……僕は自分じゃ書かないもの」
「何故?」
「僕は文字が書けないから……」
「書けない……?」
「僕は普通の人と違うんだ。少し、その……遅れてるらしい」
アルモスはそれ以上何も訊かなかった。
代わりに筆は饒舌になっていた。繊細で緻密に描かれて行く肖像がすべてを物語っているように……。

「おまえの紡ぐ詩を描かせてくれ」
男が言った。少年は首を傾げて訊き返す。
「描くって? 絵を? それとも詩を?」
「詩を」
男は言った。
(おまえという人生の抒情詩を……)
「僕の代わりに字を書いてくれるの?」
ルビーはうれしそうだった。
「そうだな。いつか、『おまえ』という人生の詩集を出すために……」
「じゃあ、その時には、あなたが絵を描いてよ。僕、絵のない本は苦手なの」
「ああ。必ず」
男が約束してくれたので、彼はまたうれしそうに笑った。

「ルビー」
入り口で誰かが呼んだ。若い銀髪の男だった。
「ギル」
そう言って彼はその男の元に駆けて行った。
「ごめんなさい。すぐに帰ろうと思ったんだけど、家が何処かわからなくなってしまったの」
「だから勝手に出歩いてはいけないと言ってあったろう」
銀髪の男が言った。
「そいつを叱らないでくれ。おれが無理に引き止めたんだ」
アルモスが言った。

「あなたは?」
「アルモス G ガザルフ。絵描きです」
「おれは、ギルフォート グレイス。ルビーが厄介を掛けたようですね。付き合ってもらってありがとうございます」
「いや。迷惑掛けたのはおれの方ですから……」
とアルモスが言った。
「ところで、もしよかったら住所を教えてもらえませんか? 送って行ってやろうと思ったのですがルビーは覚えていないと言うので……。でも、約束したのでまた会いに行きたいし……」
「住んでいるのはエルベ川の近くです。でも、残念ながら、近いうちに出発しなければならないのでお会いする事は出来ません」
ギルが言った。
「出発?」
「うん。フランスへ旅行するんだよ。南から北へ……。今度は随分長い旅になりそうなんだって……」
ルビーが言った。

「旅行? だが、この季節、学校は休みじゃないだろう?」
アルモスが言った。
「学校? 何故学校へ行くの? 僕はもう大人だから学校に行かなくてもいいんだよ」
「え?」
アルモスが驚いたように銀髪の男を見ると彼も頷いて見せた。
「そいつは失礼」
童顔といえばそれまでだが、ルビーは身長も低く、声質も高かったのでそう思い込んでしまったのだ。大人といっても一応18になれば成人として認められるので、多分それくらいなのだろうと彼は納得した。

「アルがね、僕の作った詩を文字にしてくれるって約束したの。ねえ、いいでしょう?」
ルビーが背の高いその男を見上げて言った。が、ギルフォートは否定した。
「いや。残念だが、そういう訳でしばらくドイツを離れなきゃならないんだ。代筆ならおれが手伝ってやる。だから、さよならをして来るんだ」
それを訊いてルビーはがっかりした。そして、アルモスは怒りを感じた。
「申し訳ありませんがそういう訳ですので、これで……」
とギルが言った。
「せっかくお知り合いになれたのに、残念です。でも、永久に会えない訳じゃない。また、次に会えた時にでも約束は果たすよ」
そう言ってアルモスはルビーと握手した。
「そうだね。それじゃ、またね」
ルビーも言った。ギルフォートは軽く頭を下げただけでルビーと共に教会を出て行った。

「フン。何がエルベ川の近くだ。川だぞ。一体何キロあると思ってるんだ。それ程までに教えたくない理由は何だ?」
と、その時、一筋の光が漏れてイーゼルの上のキャンバスを照らした。ハッとしてアルモスはその絵を見つめる。
それは彼がさっきまで描いていた絵だった。
「ルビー ラズレイン……あいつ、遂にこの絵を見ずに行っちまったな……。だが、見ない方があいつのためにはよかったのかもしれないが……」

――僕の中にはどんな魔物が住んでるのかな?

「フッ。魔物か……。それは、おれの胸の中にだけしまっておく事にするよ……」
イーゼルから下ろしたその絵を抱いて男は言った。
「この絵は、おれの宝物になりそうだ」
そうして、彼はそっとその絵と持ち物を鞄にしまうと教会を出た。外は光に満ちていた。その光の中へ踏み出して行く……。
(ルビー ラズレイン……)
その軌跡を追って……。

「悪いな」
彼は、もう姿の見えなくなってしまった銀髪の男に呟く。
「おれは、ルビーを追い掛ける」